くらげ界一首評【里十井円→雨澤佑太郎】
※2022年5月29日にnoteにて公開した、くらげ界での一首評企画の再掲です。
ブックオフ閉店前の街並みを民話のように語る終電/雨澤佑太郎
街並みは記憶の中でこそあたらしくなる。変わってからの街並みは、変わる前の街並みを強く美化することがある。この歌は、そんなありふれた美化を、きちんと終わらせるための歌だ。
ある街のブックオフが閉店する。有名な古本屋のチェーン店の1店舗であるそれは、多くの人が目に留めたことがあっただろう。ブックオフの閉店は、ニュースやSNSを通して多くの人に周知され、そのときすでに思い出になりはじめている。まだ閉店前ではあるが、人々はそこに「いずれなくなるもの」としてのノスタルジーを見出す。
この歌では、「民話のように語る終電」にそのノスタルジーの行く末を見ることができる。まず、街並みを語っているのが人ではなく「終電」であることに注目したい。終電はやってくる時間が定められている。日付の変わる頃に現れ、その日の最後の乗客を乗せて一日を終わらせる電車だ。その「終電」が「ブックオフ閉店前の街並み」を「語る」と詠うこの歌を読んだ時、わたしには多くの住民に一日の終わりを告げる無機物が街並みをリセットしていく景と終電に乗っている人々が街並みを一望しながら灯りの数を数え、見慣れた古本屋の灯を見つけたとき、ふと終わりの予感にふれる、という景の二つが同時に想起される。後者の景は「民話のように」によってより人々の生活への根付きが強調され、ここには言葉として書かれていない電車内の人々の存在を強く補強する。また、民話というのは、出来事が過去になってから人々に確立されるものだ。「民話のように」というのは、これから来る出来事-この歌ではブックオフの閉店-をすでに過去にし始めようとする視線を謳っている。これからくる一つの終わりを、できるだけ柔らかく受け切るための準備を始め、緩衝材としてのノスタルジーが発生する。ここで後者の景を思い出そう。電車という無機物が街並みをリセットしていく様子と書いたが、このリセットは、朝昼夜のリズムをひとまわりさせることを指す。街並みを一日ごとにリセットする終電は、変わらずにリズムを保ち、走り続けている。人々は終電に乗って帰り、また、明日を迎える。ブックオフの閉店にノスタルジーを感じつつも、それには乱されずに生活に戻り、生活を続ける。ここでノスタルジーはその美しさを無効化され、出来事はただの記憶として視界の端に置かれることになる。
大切な何かがなくなると分かる時、私たちは美化をもってその痛みを受け切ろうとしてしまう。この歌は終わりへの美化を丁寧に終わらせて、終わったという痛みを時間をかけて受けることを選んだ歌だ。
歌のこと
試験を除きかき言葉を私的な美のためにしか使ってこなかったから、祈りなき共同体のために使いなさいといわれて初めて失敗したのだね、私は……
原稿依頼が来なければ失敗もできなかったということを考えると、やっぱり私の現実での空間はあまりに同質性が高く、それゆえに美に言葉をかまける余裕が生まれていたのだなと思う
何を振り返っても恵まれていることばかりで、この私の言葉は粉飾以外のなにかになることはあるのだろうかと常に考えているけれど……
私にとっては粉飾は幻ではないが、力をもたせたいとは思ってこなかったから、扱いに難が生じている 今
2024.10.31
総レースのワンピースは黒いものと白いものを持っている。秋に着られるのが黒いワンピース、夏に着られるのが白いワンピースだ。より長く着ている黒いワンピースはところどころにできた毛玉が街にともる灯りのように散らばっている。最近クローゼットにきたばかりの白いワンピースは裾がやや長い上に首周りのアウトラインが肩の稜線を外れてしまうため、あまり着ていない。というのもこれはヴィンテージショップで買ったもので、私の体周りに合わせて見繕ったものではないのだ。
古着を着るのが苦手(古着屋も苦手)で、駅の向こうの店に出向いてまで新しいものばかりわざわざ買っていた私はとうの昔のものになり、今は新品ではない服も着て生きている。好みの範囲が広がるにつれて行く店が増えただけに過ぎないのだけれど、振り返ればおおきな変化のひとつだった。
2024.10.30
毎年きている臙脂色のコーデュロイのワンピースを今年も着はじめた。裡側にきこむ黒のニットをいつも探し回ってしまう。よそおいの厚さにもかかわらずふるえるほど寒くて紅茶をなんどものみました。
「其れつてすこし減らせない?」「でもふあんだから」入會はずいぶんむかし
川崎あんな「聲變はり」